続いては、5月28日に、都営浅草線と京成押上線の押上(スカイツリー前)駅で撮影した、京浜急行電鉄(京急)の新1000形1025Fによる3社1局直通運転ヘッドマーク付き列車による印旛日本医大行きで、浅草橋から押上までそれに乗りました。
この列車は、羽田空港国内線ターミナル(羽田空港)行きの印旛日本医大行きで、羽田空港から泉岳寺まで快特運転となっています。
この列車は5月29日の京急ファミリー鉄道フェスタで展示されていたので、印旛日本医大からの折り返しの京急久里浜行き(泉岳寺からは特急)で送り込まれていたことが分かります。
アクセス特急以外での京急車による北総線乗り入れ(印西牧の原または印旛日本医大発着)は、基本的にアクセス特急に非対応の編成(新1000形のアルミ車やステンレス車の初期型、1500形)も使われることもあり、黄色い1057Fも北総線に顔を出すこともあります。
京急車による京急線からの印西牧の原または印旛日本医大行きは、品川まで、品川・泉岳寺方面の表示も併記されているし。
1025Fは、2003(平成15)年に東急車輛製造(現、総合車両製作所横浜事業所)で製造されたアルミ車で、現在でもドイツのシーメンス社製のドレミファインバータ車(ファソラシドレミファソ~の音を奏でるVVVFインバータ)となっています。
ドレミファインバータは、1995(平成7)年12月1日に常磐線の上野~土浦間でデビューしたE501系でもお馴染みだったけど、現在はトイレ取り付けにより常磐線の土浦~いわき(草野)間と水戸線に転用され、国産のインバータ装置に交換されています。
1998(平成10)年3月28日にデビューした京急2100形、2002(平成14)年4月15日にデビューした京急新1000形にもドレミファインバータが使われ、くるりによる赤い電車でも有名となっていました。
現在は、2100形の国産インバータ装置への交換が完了し、新1000形も順次交換されているので、京急でドレミファインバータ音が聴けなくなるのも時間の問題となっています。
今回乗った押上~浅草橋間は、1960(昭和35)年12月4日に、都営地下鉄(当時は浅草線ではなく1号線と呼ばれていた)で一番最初に開業した区間であり、地下化された京成押上線の押上駅を介して、日本初の地下鉄と普通鉄道との相互直通運転(都営地下鉄と京成電鉄)が行われたことで話題になっていました。
その前年の1959(昭和34)年には、京成線の全線が軌道法(京王線、都営新宿線、都電荒川線と同様)の1372mmから1435mm(標準軌)に改軌されたという大掛かりな工事が行われていました。
井の頭線を除いた京王電鉄の路線は、都営新宿線と共に改軌されることが見送られた為に1372mmのままとなっているし。
1962(昭和37)年5月31日には、東日本橋まで、同年9月30日に人形町まで延長されたけど、東日本橋~人形町間では、建設工事中に地盤陥没事故が発生した為に人形町への延長が延期され、5月31日に浅草橋~東日本橋間が単線による暫定開業となっていたのであります。
1962年5月31日は、営団地下鉄(当時)の日比谷線の北千住~南千住間と仲御徒町~人形町間が開業し、東武伊勢崎線との相互乗り入れ(営団初の相互直通運転)が開始された時でもあり、人形町への到達が同時ではなく日比谷線のほうが先となっていました。
翌年の1963(昭和38)年2月28日には、人形町~東銀座間(江戸橋(当時)、宝町経由)が日比谷線(茅場町、八丁堀、築地経由)と同時に開業していたけど、都営地下鉄では、東銀座駅での折り返しが不可能だったので、その先の初代汐留信号所(現在の新橋駅)での折り返しとなっていました。
初代汐留信号所が、駅に格上げされ、都営地下鉄の新橋駅となったのは、同年12月12日のことであったし。
翌年の1964(昭和39)年10月1日(東海道新幹線(東京~新大阪間)の開業と同じ日)には、大門まで延長。
当時は、東海道新幹線や、同年9月18日に浜松町~旧、羽田間で開業した東京モノレールと同様に、1964年東京オリンピックに間に合わせる為に単線での暫定開業となっていたし。
やはり大門(浜松町)でモノレールに接続させる必要があったのでそのはずであるし。
1964年東京オリンピック当時は、都電が網の目のように走っていたので交通渋滞の原因となり、オリンピックに都電は邪魔だと叫ばれるようになっていました。
会場の一つでもあった駒沢エリアを走っていた玉電も、邪魔電と化していたし。
1968(昭和43)年6月21日には、大門~泉岳寺間が、京急線の泉岳寺~品川間と同時に開業し、京急線との2社1局直通運転が開始されたことで、京急の歴史で最大の出来事となっていました。
当時の京急車は、2010(平成22)年6月28日まで活躍していた旧1000形が使われていたし。
京急線の泉岳寺~品川間は、西武有楽町線(小竹向原~練馬間)と同様に、地下鉄との直通運転の為に作られた地下鉄規格の路線であり、京急本線の一部よりも京急泉岳寺線または京急浅草線のイメージが強いです。
同年11月15日には、泉岳寺~西馬込間が開業し、現在に至っています。
西馬込延長前は、京成の向島(京成曳舟~荒川(現、八広)間)と高砂に分散配置されていたけど、馬込の車両基地が出来てからは、京成に返却されています。
京成押上線と都営浅草線の押上駅は、半蔵門線と東武線のホームと同様の2面4線であるけど、比較的浅い場所にある為に、改札口やコンコースがホームの下にあります。
こちらは半蔵門線と東武線の改札口や東京スカイツリータウン(東京ソラマチ)の地下入口と直結しているし。
1960年の開業当時は、地上に駅舎があったけど、後に京成の本社ビルとなり、2013(平成25)年9月に京成の本社が京成八幡(本八幡)に移転されてからは、その跡地がライフやニトリの入った京成ビルとなっています。
元をただせば、京成の本社が上野にあったし。
周辺にある東武橋や京成橋は、それぞれの本社があったことの名残であり、東武鉄道の本社は、スカイツリータウンの建設により、押上エリアの北東部に移転されています。
このように本社が同じエリア内に移転されたことは、東急電鉄の本社が同じ渋谷エリア内(桜丘町→南平台町)に移転されたことでも挙げられているし。
因みに、渋谷駅南口のセルリアンタワー(東急ホテル)のある場所は、かつて東急の本社があったことで有名であります。
京急の本社は、泉岳寺駅前にあるけど、横浜のみなとみらいエリアに移転される予定であり、車両展示場も整備されることになっています。
これにより、京急が相模鉄道(相鉄)と同様に横浜に本社のある大手私鉄となるし。
こちらには、周辺にある横浜アンパンマンこどもミュージアムも移転してくることになります。
1998(平成10)年11月18日は、京急が羽田空港と直接結ばれるようになった記念すべき日でもあり、羽田空港から鉄道で行ける範囲が広がっていたことで話題になっていました。
押上のスカイツリータウンと羽田空港や横浜まで乗り換えなしで行けるのも、京急と都営浅草線が繋がっているお陰であります。
京成線と京急線が繋がっていることも、都営浅草線があるからこそであり、羽田空港と成田空港が鉄道で結ばれていることの素晴らしさもあります。
3社1局直通運転25周年は、3社1局はもちろんのこと千葉ニュータウンと都心が鉄道で結ばれるようになったことでも祝うべきことだと思っています。
このように、ヘッドマーク付きの京急1025Fを撮影することが出来て良かったです。
京急ファミリー鉄道フェスタのことは後程お伝え致します。