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Channel: よしちゃん@しゃもじのパワフルフル寄り添い隊ステーションワールド♪
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相鉄20000系に初乗車 2 横浜から海老名へ

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2月12日は、湘南台から横浜まで相模鉄道(相鉄)20000系に乗った後、折返しの17時41分発の急行海老名行きに乗り、海老名まで移動しました。

この日の20000系は17時11分発の急行海老名行きで入庫されるはずだったけど、上星川~西谷間で発生した線路内発煙の影響によりダイヤが乱れていたので、30分遅れとなったのであります。

こちらは急行運転だったので、横浜から二俣川までノンストップでありました。

相鉄の横浜駅は、地上2階部分にある4面3線(降車専用ホームあり)のターミナル駅であり、全てのホームにホームドアがあります。

乗り場は、1番線が、早朝・深夜以外の各停、2番線が、快速または急行、3番線が、急行または特急であり、早朝・深夜の各停は、2番線または3番線発着となります。

今回は3番線での折返しとなっていました。

相鉄横浜駅の1番線(各停乗り場)は、2,3番線(優等列車乗り場)と離れているので注意が必要であります。

こちらは西武新宿線の西武新宿駅で、1番線が各停、2,3番線が優等列車メインで使われていることに共通しています。

相鉄本線が最初に開業したのは、前身の神中鉄道の時代の1926(大正15)年5月12日の二俣川~厚木間のことであり、当時はかつての国鉄→JR相模線(相模鉄道によって開拓された路線)と同様に非電化となっていました。

同年12月1日に、星川(現、上星川)~二俣川間、1927(昭和2)年5月31日に、北程ヶ谷(現、星川)間、1929(昭和4)年2月14日に西横浜~北程ヶ谷間、1931(昭和6)年10月25日に平沼橋~西横浜間がそれぞれ開業し、1933(昭和8)年12月27日に横浜~平沼橋間が開業したことにより横浜駅にも乗り入れるようになっていました。

1933年は、横浜みなとみらいに本社のある日産自動車(NISSAN)が横浜市で創業された年でもあります。

1941(昭和16)年11月25日には、相模国分信号所~海老名間が開業し、相模国分~厚木間が貨物専用線(厚木線)に転用されていました。

相模国分~厚木間の厚木線は、厚木発着だった頃の名残であり、現在でも相鉄の車両の搬入及び搬出で使われています。

1943(昭和18)年4月1日には、小田急線の海老名国分駅が小田原寄りに移設されて海老名総合駅となり、神中鉄道が相模鉄道に吸収合併されて相模線と同じ会社(相鉄相模線)となっていました。

相模鉄道によって開拓されていた相模線は、翌年の1944(昭和19)年6月1日に国有化されて国鉄→JR東日本のものとなっていたので、井の頭線(旧、帝都線)が、小田急の傘下だった前身の帝都電鉄によって開拓され、小田急→東急の路線となった後に京王のものとなっていることに似ている状態であります。

相模鉄道は、1945(昭和20)年6月1日から1947(昭和22)年5月31日までの2年間、大東急として東京急行電鉄(東急)に合併され、東急厚木線となっていたけど、1947年6月1日に独立されて現在に至っています。

1941年11月25日に海老名まで開業した時に、神中鉄道の気動車によって小田急線の相模厚木(現、本厚木)までの直通運転が行われていたけど、1943年4月1日の海老名総合駅の開業により一旦廃止され、大東急時代の1946(昭和21)年に再開され、1964(昭和39)年11月5日に廃止されていました。

海老名から本厚木までの乗り入れを復活させようという動きもあったけど、海老名駅が改良されたこと、ATS装置に互換性がないこと、海老名~本厚木間の線路容量に余裕がないことなどにより実現は不可能であります。

その代わりに、小田急ロマンスカーの一部が海老名駅にも停車するようになり、今年3月17日には通勤時間帯にも拡大されるのであります。

相鉄線が電化されたのは、1942(昭和17)年6月1日の横浜~西谷間のことで、当時は600Vとなっていました。

翌年の1943年8月1日に西谷~二俣川間が600Vで、同年12月23日に相模大塚~海老名間が、1944年9月20日に二俣川~相模大塚間がそれぞれ1500Vで電化され、1946年12月26日に横浜~二俣川間が1500Vに昇圧化されていたのであります。

JR横須賀線と湘南新宿ラインの保土ヶ谷駅は、1887(明治20)年7月11日に横浜~国府津間と共に開業した当時は、程ヶ谷駅と呼ばれていました。

1931(昭和6)年10月1日には現在の保土ヶ谷駅となったけど、1933年4月1日に上程ヶ谷駅から星川駅に改称されるまでの間、保土ヶ谷ならぬ程ヶ谷の名が残されていたのであります。

今回は、下り線が高架化された後の星川駅を20000系で初めて通過したことになりました。

星川と言えば、昨年11月26日までいたずらマイク(現、アイロボBチーム)で活躍し、パワフル娘(ステーション♪の吉村めぐみ氏も所属していたグループ)にも在籍していたゆめちこと星川優夢(ゆめ)氏を思い出すけど、星川駅からゆめが丘駅までいずみ野線直通の各停または快速で乗り換えなしで行けるので、このことを思ったのであります。

ステーション♪の吉村めぐみ氏は、1月14日の松戸の伊勢丹(ISETAN)で行われた無銭ライブで、うぶちゃんこと桜田初姫氏(現在のステーション♪の1推し)、まーりんこと土屋真凜氏と共に見習い乗務員から正規乗務員(正規メンバー)となり、2月11日の浅草エキミセで正規乗務員の新衣装が発表されていました。

天王町駅は、星川駅付近の高架化と共に改良工事が行われているけど、星川駅付近の下り線の高架化により、天王町駅の下りホームが星川駅寄りにずれています。

和田町駅は、横浜市営地下鉄ブルーラインの三ツ沢上町駅と共に、横浜国立大学(横浜国大)の常盤台キャンパスの最寄駅となっているけど、相鉄・JR直通線が開業してからは、新設される羽沢横浜国大駅(横浜羽沢貨物駅付近)も加わることになります。

西谷駅は、JRまたは東急への連絡線の分岐駅となる駅であり、待避線として使われていた外側の2線が直通用に転用されるので、現在は使用停止となり、西谷駅での優等列車の通過待ちが出来なくなっています。

西谷駅の鶴ヶ峰駅寄りに引込線が出来るので、横浜方面への穴埋め列車にも対応することになります。

相鉄20000系は、東急線に乗り入れる予定なので、運転台が10000系や11000系のような左手操作式(E系方式)のワンハンドルマスコン(ベースとなったJR東日本のE231系やE233系と同じ)ではなく、東急方式のT字型ワンハンドルマスコンとなっているのは、直通運転予定の東急電鉄からの要望であり、操作方式が異なることにより乗務員教習に手間取っていたのも言うまでもないです。

予め20000系が用意されたのはその為でありました。

二俣川駅は、2面4線の駅(内側の2線はいずみ野線)であるけど、1989(平成元)年5月に改良される前は2面3線(中線あり)で、二俣川折返しの列車が半数存在し、1番線が本線(海老名方面)といずみ野線で共用だったので、いずみ野行きの時には誤乗防止のチャイムが鳴っていました。

二俣川駅は、神奈川県運転免許試験場の最寄駅であり、神奈川県民の運転免許の試験や免許証の更新の時にお世話になる会場であります。

今年5月6日には、すぐ近くに移転された神奈川県立がんセンターの旧病棟の跡地に試験棟が移転され、神奈川県警察運転免許センターとなる予定であります。

二俣川駅は、免許センターだけでなく、がんセンターの最寄駅でもあることが分かります。

相鉄線に急行が登場したのは、1964年11月5日のことであり、これまでの準急から変更されていました。

希望ヶ丘駅は、1948(昭和23)年5月26日に出来た駅で、いずみ野線のゆめが丘駅と合わせ、夢と希望を結ぶということから、受験生たちに人気の「ゆめきぼきっぷ」というゆめが丘→希望ヶ丘間または希望ヶ丘駅→ゆめが丘間の硬券乗車券がゆめが丘駅と希望ヶ丘駅で270円で発売され、12月23日から3月31日までの間には、受験生の為のオリジナル絵馬やゆめきぼそうにゃんピンズが付いてきます。

相鉄では、ゆめきぼきっぷに加え、受験生たちに対応させる為にバンカーお守りが390円で売られており、それには、山梨県笛吹市にある甲府国際カントリークラブのバンカーの砂が使われています。

自分(しゃもじ)は、この日のうちに相鉄20000系でゆめが丘駅から希望ヶ丘駅まで移動したので、夢と希望を結ぶ状態でありました。

相鉄の駅で漢字と平仮名が組み合わされた駅は、さがみ野、かしわ台、いずみ野、いずみ中央、ゆめが丘の7駅であります。

かしわ台駅では、代打となる10000系の10705Fが待機していたけど、8両編成で折返し急行横浜行きとなっていたという珍しい運用となっていました。

相鉄線全般の車両基地であったかしわ台車両センターは、1967(昭和42)年9月1日にかしわ台検車庫として開設され、1971(昭和46)年12月15日には工場部分が星川工場から移転されてきたことにより新設されていました。

高架化工事前の星川駅には、車庫の名残であった留置線が設けられていたことで有名であり、高架化工事によって留置線が西横浜駅に移転されたので、車庫があった頃の面影が無くなっています。

かしわ台車両センターには、かつての主力車だった6000系などの車両が静態保存されているけど、6000系は、旧スタイル(小田急顔の車両と同様に貫通ドアに縦書きの行先表示があった)のモハ6001号車(1961(昭和36)年製のトップナンバー)と、アルミ試作車であるモハ6021号車(1967年製)が選ばれています。

かしわ台駅は、1975(昭和50)年8月17日に、大塚本町駅の車両基地(海老名)寄りへの移転によって、さがみ野駅と共に開設された2面4線の駅であり、かしわ台駅の東口が大塚本町駅の駅舎、東口への通路が大塚本町駅のホームから転用されているので、大塚本町駅があった頃の名残があります。

こちらは、1980(昭和55)年4月1日に国鉄(現、JR)横浜線の原町田駅が、小田急線側に移設され、原町田駅から転用されたターミナル口にその名残があることに似ています。

大塚本町駅の駅舎が転用され、後に改築されたことは、1985(昭和60)年3月2日に、京浜急行電鉄(京急)逗子線の新逗子駅が京浜逗子駅と逗子海岸駅との統合により、その中間に開業していた時に、京浜逗子駅の駅舎が転用されて、後に改築されたことと同様の現象となっています。

次第に空が暗くなった時には、暖色系の光に変わっていました。

こちらは日立製作所製のLED照明なので、東武アーバンパークライン(野田線)で、同じ日立製作所製の60000系に乗った時に、LED照明の表示で、日立製作所のスローガンである、HITACHI Inspire the Nextと書いてあるところを見たことを思い出しました。

日立製作所製の相鉄20000系に乗った時も、Inspire the Nextを思い出したのであります。

相鉄20000系の座席は全てロングシートだけど、優先席の一部がユニバーサルシートとなっていることも特徴であります。

海老名に到着した後、種別表示が回送となっていました。

こちらは、9000系以前の京王線系統の車両と同じ方式だけど、相鉄20000系のデビューの日に当たる2月11日に最後を迎えていた都営新宿線の10-000形の回送の表示を思い出しました。

ステーション♪のなおたんこと倉沢菜央氏の卒業公演は、2月12日の浅草エキミセのハレテラスで行われる予定だったけど、天候の状態により中止となり、18日の松戸の伊勢丹で行われていたので、卒業発表が行われた場所で卒業していたことになりました。

松戸の伊勢丹は、3月21日をもって閉店される予定であり、18日が最後の松戸伊勢丹でのアイドルライブとなったので、なおたんの卒業と共に思い出となったのであります。

 12日の浅草エキミセでのライブが中止になったことにより相鉄20000系のリベンジ乗車に振り替えることが出来ました。

このように、横浜から海老名まで再び相鉄20000系に乗ることが出来て良かったです。 






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